書かない時間について
5月以降、津田沼教室レッスン再開や次回発表会の告知を除いてブログの更新が止まっていました。
理由は単純で、「外に書くこと」よりも、「自分の中で深めること」への必要を、強く感じるようになったからです。
今年4月、作曲家・夏田昌和氏の《重力波》を聴き、その作曲論文を読みました。
「ここまで音楽のことを考え抜いている人がいるのか」と驚嘆し、私の心を強く揺さぶりました。
その少し後、終止形をモチーフにした楽曲分析の発表を行いました。
会場には、音楽学習歴が半年ほどの小学生のAさんが聴きに来てくださっていました。
発表の中で、私はあるエピソードを紹介しました。
レッスン中に終止形の学習曲を弾いた小学校2年生のBさんが、
最後の半終止で「主音を弾きたーい」と言い、身もだえするように身体を動かした話です。
するとAさんは、その話に深く共感するように、柔らかな笑みを浮かべてくれました。
音楽を学び始めて間もないAさんが示したその反応は、私にとって強く印象に残る出来事でした。
さらに後日、その曲に興味を持った幼稚園の先生が、実際に園で演奏してくださったという報告を受けました。
発表をした日の夕方には、メシアンとブーレーズなど現代音楽に分類される作曲家中心のコンサートを聴きました。
以前は「理解できない」と思っていたはずの音楽が、自分でも意外なほど、その日は不思議に明快に聴こえたのです。
緻密な理論によって導き出された、音の構造。
理論を身体で捉えていることを示す、子どもの微笑み。
見知らぬ誰かの手によって、現場で奏でられる自作の曲。
そして、現代音楽の理知的な響き。
これら全く別々の地点にある出来事が、
高校生の頃に自分に投げかけた、
極めて素朴な問いへと収束していきました。
「楽譜という静止した情報が、なぜ奏者の身体を通じて、
聴き手の心を震わせる動的な現象へと変貌するのか」
以前はそれを「感性」という言葉で片付けていたかもしれません。
しかし今、私はその「変換」の裏側にある、逃れられない必然性の正体を突き止めたいと感じています。
そのような体験や、
その問いを再確認し、
音楽以外の様々な分野の文献にも、
少しずつ目を向けるようになっていきました。
そして、
先人たちが心血を注いで築き上げてきた知見に触れるたび、
感覚や感情が生まれる仕組みを通して、
音楽とは異なる角度から、
音楽の素晴らしさが立ち現れてくるように感じられました。
正直に言えば、今はその探究の真っ只中にいたい、
一刻も早くこの問いの先を確かめたいという衝動が、何よりも優先されるようになっていきました。
その切実な時間の積み重ねが、結果としてブログという形での発信を遠ざけてしまったのだと思います。
現在もまだ、私は探究の途上にあります。
そのため、今後もしばらくは特別な告知を除いて、更新は控えるつもりです。
ただ、頻繁に書いていた頃よりも、今はずっと喜びをもって音楽と接しています。
世界の末端ではありますが、それでもこの音楽の世界に触れ続けられていることを、ありがたく感じています。
「書かないでいるのは、音楽を楽しんでいる証拠でもある」
そう思っていただければ幸いです。
来年の終わり頃には、以前よりもずっと深く、皆様に楽しんでいただける内容をお届けできるはずです。
それまで、少しだけお時間をください。
最後に、毎年恒例ではありますが、今年もサンタ気分で、子どもの生徒たちにクリスマスプレゼントを贈らせていただきました。
今年は特に、子どもたちから多くの学びをもらった一年でした。
そのささやかなお礼です。
皆さまが、幸せなクリスマスと新年を迎えられますことを、心よりお祈りしております。
今年も一年、音楽を通して多くの時間をご一緒できたことに感謝しています。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。
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